長野県佐久地域で、主に建物清掃を行っています。

「障害者等の就労弱者の働く」を目的に設立したNPO法人です。(2002年設立)

現在、掃き拭き作業主体の日常清掃は「作業所」にほとんど委託していますが、
機械を使った床洗浄やワックス塗布作業の現場責任者を担う人が(私以外)いません。

まずは。現場スタッフとして現場運営のノウハウを学んでいただき、いずれ法人の運営まで関われる方を探しています。

給与は時給から始めますが、いずれは売上から経費を差引いた分の按分になります。
(実質一時間当り二千円以上になりますが、雇われでない働き方のため、数字では表せない大変さや自由さ?もあります。)


(5回までは、試用期間で時給1200円。その後は作業の習得度合いによりUPします。)

経験の有無よりもきれいにしようという気持ちがあれば、半年くらいで技術的な習得は
可能です。

委託先との対応、各現場ごとに作業手順を組み立てて一緒に作業をする「障害者」に対してわかりやすい指示を出すなど、長年やってきても難しいこともあります。

現在している仕事とのダブルワークが可能です。

現場を増やして、収入を増やすことも可能です。



関心のある方は、下記のアドレスまで是非お問合せ下さい。

年齢、性別は問いません。


nknm18foestk32km@gmail.com  (江村)

前回の記事から2年近くが過ぎてしまいました。


NPO法人お仕事チームの事業継承者募集については、このブログの他はジモティに掲載しました。

このブログへの問合せは無し。

ジモティには問い合わせが数件ありましたが、具体的なところまでの進展はありません。


現在、業務委託している作業所には可能な現場は出来る限りお願いしています。

それでも毎月数回入る定期清掃現場と日祭日は自分が必ず行っています。


作業所もギリギリの人員体制で行っており、新たな体制作りに腐心しているものの、容易には進んでいきません。

そういうわけで、まだ自分の役割があるとも云えるのですが、そろそろ体力的にもその役割を果たせなくなってくるでしょう。


この仕事、今の社会と時代でやりがい」のある、「魅力的」な仕事では決してないと思います。

しかし、そんな仕事を今している人たちがいることは有り難いことです。

自分は、今はただ気楽に仕事しているだけですが。


ところで、清掃の仕事で使う道具で一つだけ選ぶとすれば何でしょうか?
たぶんクロス、雑巾(現代ならマイクロクロスと云われるもの)でしょう。

昔、釈迦が修行に行き詰った弟子に一枚の布切れを渡したという話を読んだことがあります。

この布切れを使った「行い」が、その後清掃と呼ばれるようになったのかもしれません。


本当は「やりがい」のある仕事なのかもしれません‼??

今日は浴室の壁面、天井のカビ取り清掃。

塩素をひたすら噴霧して、そのあと軽くパットで擦る。

4~5倍という異常な高濃度で数時間の作業でも具合が悪くなる。(扇風機を回して換気しているが。)
これも仕事というものか‼?

一緒に作業したみんなもよくやってくれた…。



これから清掃の仕事をどうするかと折々考えてきた。

今やっている現場はなんとか精一杯現状で続けながら、少しづつ減らしていく(減っていく)というパターンかと思っている。

「働く」「障害者」というNPO法人として目的としてきたテーマは、社会的テーマとして社会制度と絡んでいる。

そうした中で制度が実現を目指してきた方向と、自分の本来の想い(目指していきたいこと)は微妙に、決定的に異なるように思われる。

異なるが、重なり絡んでいる部分で事業をさせてもらっているわけだが、
「違和感」も少しづつ増している。

事業としてどんな形なら、「違和感」なく出来るか?
事業というより、自分一人の活動として試みてみたいと思う。
清掃という仕事を手段として。この仕事の持つ実際の課題は少しわかっているので難しさも感じているが、発想を変えることで乗り越えていけるかもしれない。
事業としてやるということは、混沌とした現実社会の中に入り込むことのように思う。
接触したく無いところは注意深く避けながら、もう少し入り込んでみようとも思う。


以下まだ試案の段階だが、もう少しまとまったら、無理ない範囲で告知する予定です。

1「対象者」、小規模な店舗を構えて事業を営んでいる方で、予算はあまり無いが、綺麗な店内環境を維持したいと思っている方。

2「提供する仕事」、床の洗浄とワックス塗布。

3「この仕事の基本ルール」、若干の熟練が必要なポリッシャー操作(14インチ型使用)とワックス塗布以外は、依頼主の方が行う。

4「仕事に行ける範囲」、(おおよそ)御代田町、軽井沢町、佐久市、小諸市、東御市と(前橋の実家に時々行くので)安中市、前橋市

5「料金」、3時間以内の作業で税込6千円(資材費含む)

6「その他」、
◎事前に打ち合せをしっかりやり、下見はしない。
◎料金は当日払い。
◎床以外の清掃は、使う資材と洗剤、やり方が適切ならそんなに難しくないのでわかることは教えます。
◎何もない状態で50平米くらい可能です。(備品の移動があると手間がかかる。)

近日中にとりあえず、少し明確な形にして掲載します。









久しぶりに清掃作業のこと。

17日(火)建物1階部分の外側窓ガラス清掃。
9時から始めて、4人で2時間半くらいで終了。スムーズに行った。

作業の順番、担当配置など事前の段取りが上手くいったことが大きい。
ペースを見ての随時の若干の担当変更も有効だった。

18日(水)今度は建物内側の窓ガラス清掃。
西日が窓ガラスに当たってやりにくい。
ガラスの汚れがひどく、ハイテククロスではなかなか仕上がらない。
途中で一部スクイジーを使うことにする。(変更の判断が少し遅れたか?)
それでも2名のスタッフは確実に1枚1枚仕上げていく。
15時から始め、18時半に終了。

明日21日土曜日は床清掃(一部剥離)段取り考えて作業がスムーズにいくようにしよう。

癌研病院での清掃の仕事は1年くらいだったろうか。

その頃は田無市(現西東京市)のアパートに住んでいた。
天気のよい日は50CCのバイクで仕事場まで行ったりしていた。

所沢にある専門学校の受験を目指していたわけだが、当時関わっていた、「障害児」を対象にした「ボランティア」が縁でいち早く現場に出る機会を得ることとなる。
と同時に清掃の仕事も辞めることになるのだが、今回は癌研病院の頃のことを書きたい。

ここの現場主任さんは、アルコールが抜けない感じでいつも赤い顔をした人のよさそうなおじさんだった。

2階3階4階と各病棟には、それぞれ責任者で男性職員がいた。会社に馴染めそうな人、馴染めそうもない人もいたようだが、そんな人たちにも役割を与えていた清掃会社だった。
病室の洗浄は、病棟担当職員がやっていて、洗浄班は共用部分が中心で、作業は比較的余裕があった。
そんなわけで、近くの現場から定期清掃の応援があると行くこともあった。特に音羽町の女子大生マンションの定期清掃には毎月必ず出向いていた。
そこの現場責任者から、「真面目に付き合う気があるなら、入居している女子大生を紹介してあげる」と言われたが、「真面目に付き合う」を真面目に考えた結果、紹介してもらわなかった。

さて癌研病院には病棟以外、共用部やトイレ清掃担当でおばさんたちが10人近くいた。
一人70才過ぎの人がいて、力がないので便器の汚れもきれいに落とせないと主任さんが話していた。
一度そんなおばさんたちと洗浄班とで外来診察室の床洗浄作業を一緒にやったことがある。
自分は当時まだ20代だ。
いつもよりペースがゆっくりになってしまうのにイライラして、いつも以上に加速して作業していた覚えがある。その70過ぎのお婆さん!は水の入ったバケツを運ぶのも大変そうによろよろしながらだった。

その頃の自分は清掃は社会の付録の仕事で、いずれ本来の仕事に就きたいと思っていた。
それは自分にとっては、人と関わる仕事というところまでは辿り着いていた。

30年以上経て思えば、仕事に付録と本来と差別するのは、当時の自分の未熟な傲慢さだろう。<あらゆるジャンルに貴賤なし。ジャンルの中に貴賤あり>だ。

そして人と関わるがイコール仕事となると怪しくなってくるところも増えてくると考えるようになった。

まあ、色んな怪しさが蔓延っている世の中、そのどこにいようかと考えたら、付録的なところは自分には向いているかもしれない。


たぶん今まで5つ以上の会社で定期清掃を体験している。
その最初の1974年頃と2016年現在とで床面定期清掃のやり方は、特に14インチポリッシャーを使うくらいのある程度の面積と機動性を要する分野では全く変わっていない。

作業内容のレベルの高さでは〈洗浄班〉が抜きん出て高かった。お仕事チームは中小の現場が多いので、ハウスクリーニング的な要素を取り入れたり、作業工程に工夫を加えている。

それぞれ作業能力に限界のある人たちのチームであること、そして何よりも契約条件(金額)によって出来ることに制限がある。床の汚れだけ見ていた昔と今はだいぶ自分の立ち位置が違う。

そんなこともあり、今では仕事の後の心地よさからだいぶ遠ざかってしまった。

さて、古きよき時代!の
1980年代初めの東京女子医大洗浄班では6人のチームで各自一つの担当を一日づつ交替でやっていた。当時メンバーは皆30歳前後でおそらく自分(当時26歳くらいか。)も含めて体力もあった。

ベテランの40歳くらいの原さんという人がいたが、いつもヘトヘトになって作業していた。
当時は、この仕事は40歳くらいまでが限界だなと思っていた。

その後、当時大塚にあった癌研病院でも洗浄班を立ち上げるということで、原さんと自分が癌研病院に行くことになった。
癌研病院では乾式(ドライ)の床メンテナンスも始めるという会社方針で、色々試行錯誤しながらゆったりやっていた。
原さんはアルバイトであったが、当時会社でも有数の技術とノウハウを持っていたらしい。この人から技術を色々教えてもらった。

さて、洗浄班の作業担当
だが、これがそのまま定期清掃の作業手順になる。

まずは、〈洗剤塗布〉、これ自体はそんなに大変ではないが作業する床面の備品を片付けたり、ワックス塗布後の戻しもある。特に病室の洗浄の時は大変だった。
次が〈ポリッシャーでの洗浄〉、慣れるまでは機械に振り回されてしまうが、バランスが会得出来ればそれほど力は要らない。そうはいっても微妙な操作が出来るまでには時間がかかる。
その次に〈汚水回収作業〉業界用語でカッパキといわれる作業。それなりの技術の習得がいる。今はウェットバキュームも使われる。当時カッパキ名人と言われていた人がいたが、今では無形文化財みたいな技能だ。
次に〈一番拭き〉〈二番拭き〉これは比較的楽な担当か。
そして最後が〈ワックス塗布〉となる。当時はワックス塗布もT型モップが使われていた。人の歩く動線を分かって、薄くワックスの層を重ねることが必要だと教えられた。今は道具も改良され、基本全面塗布が一般的で以前ほど熟練を必要としなくなったが、それでも仕上げの大事な作業だ。

モップは着脱式に、そしてワックス塗布はモップから専用の長方形の布に変わった。

お仕事チームを始めた頃は、昔自分が清掃作業をやっていた建物にたまに仕上がり状態の視察に行ったりしていた。
清掃の行き届いた、そしてワックスの塗り重ね重ねられた古い建物の中を歩くのもよいものだ。

昔の記憶は、数年の誤差が生じてしまう。
その頃は1年1年いや1日1日違った生き方をしていたと思っていただろうに。

東京女子医大で清掃の仕事をしていたのは、最初が1974年だ。これは数ヵ月いて、再受験のため辞めた。その時初めて、ビールなるものをしっかり飲んで、身体中湿疹が出来て夜中中苦しんだことを覚えている。
そのおかげで強力な免疫力がついたらしい。

その後、1980年に大学を卒業して1年間会社員なるものをした。

そのあと、半年ほど北海道然別湖畔の旅館で働き、東京の戻った後これも大学時代にしていた病院当直の仕事を再度やらせてもらったりした。
そのあと1982、3年頃再度東京女子医大で働いた。(後半は当時大塚にあった癌研病院に移る。)
ここで、床清掃の技術を身体で学んだ。

と少し自分の過去を整理してみたが、今回記したかったのは、そのあとのことだ。

洗浄班の勤務時間は13時から21時だったが、だいたい20時くらいには終わる。
東京女子医大の時はバスで新宿西口に出る。

夕飯は、病院の職員食堂で食べている訳だか、西口やきとり横丁を入ってすぐのところの中華料理店岐阜屋によく行った。(御代田の中華料理店岐阜屋がそこからのれんわけしたことを今から数年前に知った。)

まあ、気持ちよく疲れて、食べて一杯飲むことで1日終われれば、それは大変よい1日だ。
その頃は午前中、専門学校の受験のため、高田馬場の有料自習室に通っていたのだが、今振り返ると心地よく疲れて、食べて飲んでた記憶が大きく占めている。
人生の先はまだわからないが漠然とした希望を懐いて生きていた頃だったのだろう。

今日は午前中ゴミの回収と分別が仕事だった。

うちでは分別は大の苦手だが、仕事となればやらなければならない。

分別がめちゃくちゃだと大変だ。持っていってくれる程度には、分別しなければならない。

回収業者もいちいちイエローカードを出すのは大変な労力を要することで、ある程度の許容範囲で回収していく。


清掃の仕事にゴミの回収はつきものらしく、昔、東京女子医大でも、午後の仕事の始まりは、全員でのゴミの搬出だった。

その後、癌研病院(これは35年ほど前のこと。当時は大塚にあった。)でも洗浄班で働いたが、たしかゴミの回収もしていたと思う。

そこは地下にゴミの焼却場があって、そこにゴミの主のような人がいた。朝から晩までほとんどそこにいて、休むのは月に一度あるかないかだった。
そこに暮らしていると言われても、きっと自分は疑わなかったろう。(近くに住んでいたらしい。)

当時70歳近くの人だったから今はあの世にいるのかと思う。
今は癌研病院も移転したが、その前に一度、1月の1日だか2日に行ってみたことがある。
知らない人が病棟の廊下でポリッシャーを回していた。

もう40年以上前になるが、前橋の高校を卒業して東京に出て来た。

府中にあった大学の寮に入ったが、大学にはあまり行かず、日刊アルバイトニュースで見つけた東京女子医大病院の定期清掃(洗浄班)の仕事を始めたのが、東京での初めての仕事だった。

そして現在もこうして清掃の仕事をしているとは、当時は全く想像できなかった。

もうそろそろ清掃の仕事から少しづつ身を退きながら自分の身辺の清掃をする時期に来ていると思う。

という訳で、清掃をテーマにあれこれ書き記していこうと思う。

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